2020年までにスポーツを新たな産業の担い手にするためのブログ

日本のスポーツ界を発展させていきたい。そのためにはどうしたら良いのかを色々な角度から検証してみたい。

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テーマ:スポーツビジネス&スポーツ文化 - ジャンル:スポーツ

アメリカでの生活(2)

さて、海外生活でなくてはならないものは「手紙」です。今はネットも普及して、自分の言語で世界のどこへでもメールを出せるようになって来ました。しかし、私が留学していた1996年頃はまだネットが出始めの頃。学校のコンピューターからでは日本語も読めず、書くことも出来ませんでした。また、日本の友達でもメールを使うことが出来る人も限られた人数でした。

寮の自分のメールボックスに何か入ってないなーと覗くのが本当に一日の最大といってもいいくらいの楽しみでした。手紙が入ってるときは大はしゃぎ。時には紙切れみたいなモノが入っています。これは大きな荷物が来たときのお知らせ。紙切れと荷物をフロントで交換してもらいます。親から送って来たカップ麺やNUMBERなどの雑誌。うーん、最高!!

手紙で涙したことも何度もあります。送って下さった方々、本当にありがとうございました。特に印象に残っている手紙のエピソードを一つだけご紹介します。

私の最初の学期、前にも書きましたが、「解剖学」と「生理学」を両方とも88点以上取らないといけませんでした。ところが、解剖学で4つしかないテストのその第一回目で68点というとんでもない成績を取ってしまいました。もともと、勉強もそんなにしたことないし、頭も決していいほうではないし、英語で受ける初めての授業だし。この、解剖学の成績は4回のテストの平均がそのまま成績として現れます。ということは、後3回のテストで、平均94点を取らないと退学・・・もう頭が真っ白になりました。友達には大きいこと言ってアメリカ来てるし・・・母親は「いつでも帰ってきなさい」なんてのんきな事を言っていましたが、その言葉が頭をよぎりました。半年もたたずに夢破れて帰国か・・・

その状態で寮について無意識に寮の郵便受けをチェックするとそこに一通手紙が来てるではありませんか!!大学時代、一緒に走っていた陸上部の親友からの手紙です。私は部屋にも帰らず、寮のフロントで開封し、読み始めました。内容はあまり覚えていないのですが、その場で私は泣いていました。自分が情けなくて、悔しくて・・・応援してくれる人がいるのに、俺は何をやっているのだろうと。

その後、解剖学の2回目のテストで何と100点を取り、3回目、4回も無難にクリアし、見事解剖学も生理学も標準点をクリア、晴れて次の学期に進むことが出来たのでした。この最初の一学期の経験が自分にかなりの自信を与えてくれたと思っています。あの手紙があの日に届いていなかったら僕の人生も大きく変わっていたかもしれません。

続く

アメリカでの生活(1)

今日は自己紹介の続きを書きたいと思います。

大学を経済学部で出て、大学院はスポーツ科学。ここがアメリカ社会の凄い(?)ところ。私も最初はアメリカで大学にいくつもりでいましたが、ある時、アメリカの先生が「君は日本で大学を卒業するのになぜまた大学に入りなおすのか、大学院に行きなさい」と言われ、そんなもんなんだと思い、大学院を受けることにしました。最初は大学レベルの生理学や解剖学を取り、ある程度の成績(88点以上!?)を収めれば大学院に本入学を許されるシステムです。

アメリカではメジャー(専攻)を変える事は日常的に良くあることです。私の知り合いは10回もメジャーを変えている人がいました。また、ダブルメジャーやトリプルメジャー(つまり専攻の掛け持ち)なんていう人も沢山いました。それが良いのか悪いのかの判断は別にして、人生の進路をいつでも自由に変える事が出来ることは良いのではないかと個人的には思います。日本はあまりにも硬直的過ぎるのでは・・・(この話をしだすと止まらないのでまた後日テーマを設けて語らせて頂きます)

まあ、そんなかんだで、トレーニングの勉強をするためにいざアメリカへ!!最初に授業の選択。始めに生理学と解剖学を取らないと、と思いきや、その二つを取るには生物を取らないといけない事が判明。生物だけのために一学期がつぶれてしまうと思っていたら、先生から「あ、生物は大学の時とってるから良いよ」と言われハッと気付きました。何と、大学一年の一般教養でなーんにも勉強してなった生物を取っていたのです。こんなところで役に立つとは、ありがとう生物の伊藤先生(確か)!!(顔覚えてません、すみません・・・)何がどこでどういう風に役に立つのか分からないものですね。

続く

なぜアメリカに渡ったか(4)

中3の時にアメリカから帰国し、中学、高校と野球部に所属したことは以前にも書きました。そして、この頃から日本のスポーツ科学について疑問を持ち始めたことも書きました。しかし、この頃の経験はかけがえのないものです。今でもチームメイトの奴等とは頻繁に連絡を取ったり会ったりしています。今会っても何の違和感もなく、昔のままです。私の知人が言っていました。「日本のシステムの中にもいいところもある」と。こんな友情を築けるのも日本の体育会のシステムのおかげではないかと思っています。

その後、エスカレーター式に付属の大学の経済学部に進学しました。トレーナーというものに少し興味を持っていた私でしたが、ある時アメリカのトレーナーのシステムは良いという話を聞き、ここでATCの存在について知りました。(ここではATCについては詳しくは触れません。また後日じっくりと説明します)つまり、アメリカにはトレーナーを育てる教育システムがあって、そのシステムで育った人が現場に出て活躍しているというのです。私は大いに刺激を受けて、アメリカ行きを決意(単純・・・)父にアメリカの大学に入りなおしたいと伝えました。当然ですが、父は反対しました。「何だかんだでまだ日本は学歴社会だから、お前はこのままアメリカに行ったら高卒扱いになる。大学を卒業してから好きな事をしなさい」という内容でした。後に父と話をしたとき、「卒業してから本当にアメリカに行きたいと言うとは思わなかった」と言ってました。ということで、とりあえず、大学を卒業することにしました。

大学ではなぜか陸上の長距離を走ってました。野球から陸上に行った理由はこのブログの趣旨とは離れるかもしれないのであえて書きません。(というか、早く先に進みたいので)その他に大学の体育会をまとめる団体「運動部常任委員会(通称:運常)」というものにも所属しており、ここでは最上級生時に委員長を務めておりました。この「運常」での経験なくして僕の人生は語れないほど、本当に色々な経験をさせてもらいました。この時の仲間も僕の大切な宝物です。「運常」での経験についても後日語れたらと思っています。

そんなかんだで、大学3年生の終わりになり、就職活動の時期がやってまいりました。この時になっても私のアメリカ行きの考えは変わっていませんでした。ただし、アスレチックトレーナーはちょっと難しそうだなと思い、トレーニングの道へ進もうと思っていました。友人が就職活動をするのを尻目に、私はTOFLEの勉強と留学先探しを始めました。

(続く)

なぜアメリカに渡ったか(3)

そんなかんだで2年間アメリカで過ごすことになりました。ここで私はアメリカのスポーツ文化に触れたのです。ここでの経験が私のスポーツに対する考え方の原点になっているのではないでしょうか。

スポーツのシーズン制

これに関しては後日じっくりと書きたいと思いますので、とりあえず私が経験したことだけをここで書きます。(1980年代後半で僕が通っていたニュージャージー州の中学校でのお話ということを前提に読んで下さい。現状では変わってるかもしれませんし、地域間でも違うかもしれません。また、記憶が間違っている可能性もありますのでご了承下さい。)まず、学校に運動部がないのです。そのスポーツのシーズンが来ると募集がかかって(募集の方法はどんなだったか、ちょっと記憶に無いのですが・・・)応募するとコーチの人から電話がかかって来て、練習開始。そしてすぐに試合をしました。私は野球はもちろん、秋はサッカー、冬はレスリングをやりました。野球とサッカーに関しては勝手に地域の人がチーム分けをしていて、週2回くらい練習して、日曜日試合という感じでした。そしてシーズンが終わったらチームは解散です。このシステムに関しては日本と全く違い、自分にとっては本当に良い経験でした。また、日本のスポーツを考える上でも身をもってこのシステムを体験したことは本当に意義のあることでした。

野球のキャンプ

夏休みに3週間、親元を離れ、野球のキャンプに参加しました。小学校3年生から中学校3年生くらいの日本人の子が集まってたと思います。そんな長期で親元を離れるのは初めてです。しかも僕は選手の中でも2番目くらいに年上でした。山小屋みたいなところに、みんなでビーチにある折りたためるベッドみたいなやつを並べて、そこに寝袋をしいての生活です。狸が部屋に入ってきてめちゃくちゃにしたりとかいう事件もありました。昼間は練習して、夜はキャンプファイヤーをしたりとか、本当に楽しかったです。やっぱり子供同士ですから、ケンカをしたりとか、ホームシックになったやつを励ましたりとか、中には日本語をほとんど話せない子や、逆に英語が出来ない子がいたりと、本当に色々な事がありました。バスで遠征に行ったりもしました。僕はキャッチャ(?!)をしていたのですが、どうしてもストライクを取ってくれないことがあって、子供心にこれは差別だ!!(日本人のチーム対アメリカ人のチームで審判はアメリカ人)と激怒して帰りのバスの中で泣きながら帰ってきた事もありました。隣にはピッチャーの子が黙って座っててくれました。あの時の悔しさは今でも昨日のことのように覚えています。

スポーツ以外でも、旅行に行ったり、僕はアメリカ生活を満喫していました。これらの経験を通して、いつかはアメリカに帰りたいという思いが心にあった事は確かです。

続く

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